- 住所・・・埼玉県東松山市岩殿1129
- 山号・・・巌殿山
- 宗派・・・真言宗
- 本尊・・・千手観音立像
- 坂東三十三観音霊場第10番札所
創建
寺伝では養老2年(718年)に沙門逸海が岩殿山の岩窟に観音像を安置し、傍らに正法庵と号した草庵を結んだのが始まりと伝わっている。
境内
観音堂・本堂・薬師堂・百地蔵堂・鐘楼・仁王門・石仏・大銀杏・納経所
逸話
- 悪霊の竜に悩まされていた岩殿の人々が、蝦夷征伐の途中である坂上田村麻呂に竜を岩殿観音の力を借りて竜を退治した。そして、桓武天皇は、延暦15年(796年)に勅命によって岩殿観音に伽藍を建立せしめた。
- この岩殿一帯を納めていた比企氏は頼朝の配流の間も支援していたため、頼朝が政権をとった時、頼朝はこの寺院に帰依し、妻の政子の重きをなした。
- 岩殿観音から近くにある松山城は、武州のほぼ中央に位置し、北武蔵支配の重要拠点であった。戦国後期の永禄年間の始めには、越後上杉氏と小田原北条氏の間で激しく奪い合われることとなる。
- 永禄4年(1561年)、北条氏康が抑えていた松山城は太田資正に攻め取られ、上杉憲勝を城主とした。これに対して、北条氏康は岩殿観音隣村の高坂村に陣を敷き、松山城を激しく攻めた。しかし、松山城は堅固な守りに加え、籠城の備えも厚かったため、落城することはなかった。
- これに業を煮やした北条氏康は、岩殿観音を始めとする付近の寺社をことごとく焼き払った。
- 松山城合戦で廃燼に帰した伽藍を天正5年(1577)に栄俊が松山城主上田安独斎の庇護を受けて再興を遂げた。
- 天正19年(1591)に徳川家康の庇護のもと隆盛を迎え、坂東三十三観音霊場第10番札所としても、仏教の地域の拠点としても門前町とともに栄えた。
- 近代のはじめに廃仏毀釈によって正法寺だけでなく、近隣の寺院も被害、廃止に追い込まれたが、戦乱を越えて、現代になると平和な時期になり、参拝者も増え、現在に至る。
坂上田村麻呂と桓武天皇
頼朝と政子
戦国時代の戦火
中興の祖
近世の隆盛
廃仏毀釈と現代
体験談
バスを降りて参道だと思っていた道案内の通りに行くと境内の裏手に出ていきなり観音堂などが見え、門の方に行くと門前町が一望でき圧巻でした。