南北朝時代の大事件である観応の擾乱は、一般には兄である足利尊氏と弟足利直義の対立として説明されることが多い。しかしこの見方だけでは、この内乱の本質は十分に理解できないように思われる。 まず重要なのは、尊氏と直義の関係である。尊氏は軍事的才能に優れた武将であったが、政治の細部に深く関わろうとする人物ではなかったように見える。一方で直義は、訴訟や所領安堵などの行政を担当し、政権の実務を担う存在であった。 しかし直義の政治は、武士社会にとって必ずしも都合のよいものではなかった。南北朝時代の武士は、後の近世のような絶対的忠誠関係の中にあったわけではない。将軍に従う姿勢を見せながらも、自分たちの利益に反する政策があれば離反する流動的な社会であった。 そのため武士たちは、将軍である足利尊氏に軍功を示して恩を売ることで、直義の政治的判断に対して強く安堵を求めたり、時にはこれに対抗する余地を持とうとしたのである。つまり尊氏は、武士たちにとって直義政治に対する一種の対抗軸としても利用されていたと考えられる。 尊氏自身は、こうした武士社会の調整役になろうとしたわけではないだろう。むしろ政治の混乱には関わりたくないという姿勢さえ感じられる。しかし彼が将軍職を手放さなかったのは、直義の政治を支える後ろ盾として必要だったからではないだろうか。 尊氏が将軍として存在している限り、直義の政権は一定の権威を保つことができたからである。 観応の擾乱は、単なる兄弟の対立ではなく、力を増した武士社会の利害と政治の衝突が生んだ内乱であったと考えるべきだろう。そしてその中で、尊氏という存在は権力の中心というよりも、武士社会の中で担ぎ上げられた象徴的な存在でもあったのである。