運慶
| ID | word | kana | meaning | reference |
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| 1830 | 運慶 | うんけい | ?-1223(貞応2)鎌倉時代の仏師。康慶の子。慶派仏師中の第一人者で鎌倉時代の新様式を完成。剛健な写実主義は鎌倉時代彫刻の規範となった。法印・大仏師となる。運慶作と伝える像は非常に多く、その活動を伝える文献も多いが、確かな遺品は少ない。代表作、円成寺の大日如来像、東大寺南大門の仁王像、興福寺北円堂の諸像など。 | :高柳光寿・竹内理三編『角川日本史辞典 第二版』、角川書店、1974: |
| 16507 | 運慶 | うんけい | ?-1223 鎌倉時代初期の仏師。康慶の子。長子湛慶が建長6年(1254)82歳であった(蓮華王院本堂中尊千手観音像銘)のことから逆算して、ほぼ1240年代の出生と推定される。治承4年(1180)焼亡の東大・興福両寺の復興造像に康慶とともに一門を率いて活躍、この間すぐれた造仏手腕によって南京仏師の地位を高めるとともに、新様式を完成、鎌倉時代彫刻様式の根幹を形づくった。安元2年(1176)に造った円成寺大日如来像が知られる最初の遺作で、寿永2年(1183)みずから発願の『法華経』(真正極楽寺・上野家蔵)を書写、文治2年1186)北条時政発願の伊豆願成就院弥勒菩薩、同5年和田義盛発願の横須賀浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門(現存)を造り、その銘によれば当時相応院勾当であった。建久5年(1194)峯仲子私田を買得した興福寺西金堂衆雲慶房大法師(『東大寺文書』)を仏師雲慶にあてる説がある。同年東大寺中門二天造立に定覚を補佐し、同6年東大寺大仏殿供養に康慶で法眼叙位。翌7年大仏殿脇侍・四天王像を康慶・定覚・快慶とともに造り、同8年・9年文覚発願により東寺講堂諸像を修理、同南大門二王、神護寺中門二天を造り、同じく文覚発願により東寺講堂像を模して神護寺諸像を造立するが、これは遅れて文覚没後に完成している。建仁2年(1202)近衛基通発願の白檀1尺6寸普賢菩薩を造り、翌3年東大寺南大門二王(現存)を快慶らと造り、東大寺総供養に際して法印叙位、承元2年(1208)より建暦2年(1212)まで一門を率い惣大仏師として興福寺北円堂諸像(弥勒仏・無著・世親現存)を造り、建保元年(1213)法勝寺九重塔造仏に当時の諸流の仏師とともに携わり、同4年源実朝持仏堂釈迦を京都より渡し、同6年北条義時発願大倉新御堂薬師を造り、承元元年(1219)平政子発勝長寿院五大堂造仏、建保6年以前みずから発願造立の地蔵十輪院諸像を貞応2年(1223)高山寺に移したのが知られる最後の事蹟である。その他、光明峯寺金堂不動三尊を造っている。同年12月11日没。以上、南京仏師として興福寺関係のほか、早くから東国武士関係の造仏に従い、のちに京都に本拠地を移したが、晩年に至るまで鎌倉政権との関係は密接であった。円成寺大日では若年の作ながら的確な造型にすぐれた彫刻にまなびながら写実と量感を兼ねそなえた力強い新様式をはじめて打ち出し、以後これを洗練させて鎌倉彫刻の基本型を完成させた。六波羅蜜寺地蔵菩薩像、建久8年の金剛峯寺不動堂八大童子像の内六躯、建久後半ころの栃木光得寺大日如来像、建仁元年の愛知滝山寺聖観音・梵天・帝釈天像は彼の作と推定される。子息6人(湛慶・康運・康弁・康勝・運賀・運助)はそれぞれ運慶様をついでこれを展開させ、娘如意は七条女房冷泉局の養子となり正治元年(1199)近江香荘を譲り受けたことが知られる(早稲田大学図書館所蔵『香荘文書』)。 | 『大日本史料』4ノ15、承久元年12月27日条:小林剛『日本彫刻作家研究』:久野健・田枝幹宏(『運慶の彫刻』:水野敬三郎他編『運慶と快慶』(『日本美術全集』10):田辺三郎助編『運慶と快慶』(至文堂『日本の美術』78):『東大寺南大門国宝木造金剛力士像修理報告書』:林屋辰三郎「仏師運慶について」(『中世文化の基調』所収):荻野三七彦「運慶の謎」(『日本中世古文書の研究』所収):西川杏太郎「運慶の作例とその木寄せについて」(『仏教芸術』84):松島健「滝山寺聖観音・梵天・帝釈天像と運慶」(『美術史』112):山本勉「足利・光得寺大日如来像と運慶」(『東京国立博物館紀要』23):伊東史朗「高野山不動堂の八大童子像と運慶」(京都国立博物館『学叢』6):熊田由美子「東大寺南大門仁王像の図像と造形-運慶と宋仏画-」(『南都仏教』55):水野敬三郎「興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶」(『日本彫刻史研究』所収):熊田由美子「晩年期の運慶-その造像状況をめぐる一考察-」(『東京芸術大学美術学部紀要』26):今泉淑夫『日本仏教史辞典』、吉川弘文館、1999: |